【佐藤佐吉演劇祭2024参加作品】
「精神明晰サバナに没す」「さんぽハイ」「日めくりカレンダーAタイプ読み聞かせ」「日めくりカレンダーBタイプ読み聞かせ」
2024/3/11(月)
@東京都北区 王子小劇場
作・演出・出演:B子
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
B子の公演に向け、宇宙論☆講座主宰の五十部裕明さんより応援コメントをいただきました。ありがとうございます(*^^*)
下記より、どうぞ~
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初めてB子に会ったときのことだ。
彼女は、釜飯とウーロン茶を注文していた。それをおれは見ていた。
やがて炊きあがりまでの長い時間をかけて釜飯とウーロン茶が来ると、彼女はなんだかとても具合のよくない様子で、絵本の雪女のような蒼白の表情で、「いま、、ものを食べると、、、全部イクラの味がするので…」という意味のことを言い、???となる周囲の人たちの思いをよそに、本当にただの一口もそれらを食べずに飲まずに、釜飯もウーロン茶も全部残した。店員さんが運んで来たまんまの状態で全部そのまま残した。それをおれは見ていた。
ごはんの残しかたには2種類ある。
【1】自分はこの食べものをきっと全部食べきる(完食する)つもりで食べ始めたが、なんらかの事由(想定外に満腹になったり、味に飽きたり、食べていられる時間が終わったり、不味かったり、好みに合わなかったり、うっかり途中で下げられてしまったり、重箱や二段型の弁当箱などで下の段の存在に気づかなかったり、冷めてしまったのでやめにしたり、全部こぼしてしまったり、食事を中断せざるをえない事件が発生したりなど)で残すパターン。
【2】食べきることはないだろう(完食しない)と思って食べ始めて(そもそもさほど空腹でない、苦手なメニューだ、おいしくなさそうだ、健康上の理由や摂生で残すことにしている、腹は減っているが自分の胃の許容量より明らかに多そうだ、無理すれば食べきれるだろうが無理したくない、そもそも食事をする気分ではないが少し食べておきたい、箸をつけないと失礼かと思いとりあえず箸をつけた、時間があれば食べきれるだろうが食べる時間が限られている、わんこそばなど際限なく強制的におかわりを提供してくるシステムの店なので完食の概念が無いなど)、実際に残すパターン。
そのどちらでもなかった。
逡巡も躊躇いもなく、とても気持ちのよいはっきりとした態度で、届いたばかりの、熱々の、先刻自分でこれを食べようと思って注文したはずの、おいしそうな釜飯を「食べなかった」。
残す以前にそもそも食べないというパターンを【3】(なにか意地を張っている。この食物にアレルギーがあることを忘れていた、急に食欲がゼロになる事態が起きた、食べようとしたら手品師に消された、原因不明だがとにかく食べないなど)とする。
釜飯という、「よ~し!食べるぞ」のモードでなければまず人は注文しないタイプの食べものを注文しておきながら、きっぱりと【3】をするB子。
あと、「全部イクラの味」になってしまうというなら、むしろ、得なんじゃないか。
謎は尽きないが、釜飯は、おれや周囲の人たちがもらった。
気持ちのよいごはんの食べ方というものがある。
例えば分かりやすいので言うと、食べ盛りの運動部の高校生とかが、ものすごい量をものすごい勢いでドガーッ!と食べるときのあれだ。
繊細な味付けの何かであろうが、時間をかけて煮た煮物だろうがなんだろうが、
「そんなにガツガツ食べたら味もなにも分からないでしょうに」
と思いながらも、きっとその料理を作った人は、そういうのは見ていて嬉しいんだと思う。
B子の釜飯の「食べなさ」っぷりには、それと同じ気持ちよさがあった。食べものに対する、本当に気持ちのよい対峙のしかたというものがあった。
それを見届け、その場に居合わせた者たちが味わったであろう、演劇的快楽とも呼べるものさえあった。
釜飯もきっと嬉しかったと思う。
そしてB子の残した、いや、食べなかった釜飯を食べながら、おれは「またホンモノが現れたかもしれない」と思った。幸運だと思った。
ホンモノというのが、なにを指すのかはわからない。天才肌、とか天才、みたいな言い方だと気恥ずかしいというか陳腐になってしまうそれをボカした言い換えというか、とにかく、
「世の中にこういう人ばっかりだったらいいのにな」
「こういう人がもっといたらいいな」
「でも実際に世の中こういう人ばかりだと万事はうまく機能せず世界はすぐ終わってしまうだろうな」
「しかし、こういう人がいろんなものを掻き回したりおもしろくしてくれるのだ」
みたいな探し人ということにしたい。
音楽や演劇をやっている人間にとって、同じく音楽や演劇をやっているおもしろい人間やホンモノの人間といかにたくさん邂逅できるか、というのはとても重要なことだ。
一番重要なことかもしれない。
そういう人と巡り合ったときの、いつものクセでおれは、
「さあ、いつのタイミングで、どういう手段で、この人を宇宙論☆講座に誘うか」
を考え始めていた。
当時おれは「1日外出録ハンチョウ」にはまっていたので、心で「ククク…」「キキキ…」という喉締め発声をしつつ、釜飯をガツガツ食べながらそういうことを思った。
初めてB子にもらった台本、それは原稿用紙に手書きだった。
手書きなのに、とても読みやすかった。
手書きの楽譜と同じだ。楽譜というものは浄書ソフトで仕上げたもののほうが格段に読みやすいが、作曲者本人が想いを込めて鉛筆で手書きしたものは、読むべき音符がぐっと目の前に飛び込んでくるような圧があったりして、視覚としての読みやすさとは別に、なにかそれを超えて心理に働きかけるような読みやすさや扇動力というものがあるわけだ。
演劇の台本は本来、原稿用紙に手書きされるべきなのだ。とおれは思っている。
「B子 20×20」と印字されたオリジナル400字詰原稿用紙のマス目にびっしり書かれたその台本は、とても読みやすかった。そして隅々までオリジナリティに溢れていた。
「やはり、ホンモノであるらしい」
と思った。
その後、
初めてB子の上演を観て、おれは、
「わあ、ホンモノだ」
と思った。
これについては長くなるので割愛する。実は現在、宇宙論☆講座の小屋入り2日前なので、いっさいの時間の余裕がない。今それを書き始めてしまうとまずい。
さらにその後、
初めてB子と酒を飲んだとき、
「今度おれと一緒に、なにかやりましょう」
と言ったら、即答で了承を得られた。
その即答の返しの間合いには、釜飯の「食べなさ」っぷりと同じ気持ちのよさがあった。
B子は毎月公演をやっている。これはフットワークが軽いとかそういうことじゃない。
演劇を本気でやろうと思うなら、毎月公演をやるのが普通なのだ。とおれは思っている。
なので、きっとすぐ、今度おれはB子となにかをやる。
おれはB子をホンモノだと思うし、そして、おれはおれ自身のことをホンモノだと思っているので、ホンモノとホンモノが今度なにかするのだ。
と思っていていただきたい。
ただし、それが叶うかはまだ分からない。
なぜなら、B子が、3月11日(月)の王子小劇場の上演で、命を落としてしまうかもしれないからだ。
体がとてつもなく弱い(ガチで)と聞くのに、休憩なし一人芝居12時間上演をするからだ。
乗り打ちバラシで。
あと、きっとおれと同じで、ものすごく、本当にものすごく無理をするタイプだ。
死なないでほしい。
ホンモノはすぐ死んじゃうから。これは実感である。
すぐに死んでしまったホンモノをおれは何人も見た気がする。
「ひとりで12時間上演? そんなの死んじゃうじゃん笑」の心配の仕方はしやすかろうが、その心配の仕方ではない。
本当に3月11日(月)の王子小劇場の上演で、B子は死んでしまうかもしれない、その恐れはある程度、結構でかい。と、おれは思っている。
しかし、無理をして死なないでほしい、なんて当たり前のこと今さら思ったってしょうがないのだ。
なので、死なないでほしい。とは思っていない。
死なないといいな。と思っている。
――五十部裕明 (宇宙論☆講座)さま
コメント
コメントを投稿