【佐藤佐吉演劇祭2024参加作品】
「精神明晰サバナに没す」「さんぽハイ」「日めくりカレンダーAタイプ読み聞かせ」「日めくりカレンダーBタイプ読み聞かせ」
2024/3/11(月)
@東京都北区 王子小劇場
作・演出・出演:B子
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B子の公演に向け、上演作品の紹介をおこないます。
今回はスタッフHによる「精神明晰サバナに没す」の紹介です。
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「精神明晰サバナに没す」
作品のあらすじ:陰毛を拾った男女が口論になる
#百田尚樹の日本国憲法#杏林製薬株式会社#Journey In Satchidananda#りぃな@春から上智#転売ヤーに告ぐ
まず脚本のフォーマットが些か特殊である。
①左下に「B子20×20」、右下にページ番号が全て振られている原稿用紙に、手書きで記されている。
②ト書きは殆ど無く、あるとして「()閉じされたもの」「※で注釈されている」方法で受け取ることができる。
③舞城王太郎の小説(『阿修羅ガール』等)を思わせるような、太字でマスをこえた大きな文字が視覚的な効果をもって時折あらわれる。
④終りには「~END~」とある。
①から取り上げると、これが量産的な原稿用紙ではなく(パット見は小学生の作文で用いるような量産的な原稿用紙で、そこにアレンジが加わっている)、B子のキャンバスとしてオリジナルの"もの"として整えられている部分に目がひかれる。市販品に余す枚なく「B子20×20」と記された原稿用紙はなく、空手家が行き慣れた道場で座し、技術(鍛錬)を発揮する光景がふと思い浮かぶ。手書きに入る前の、この原稿用紙へのフォーマットとしての記述には明確な指示はないように思えるが、B子が執筆に入り、文字をしたためていくための"様式"であると考えると、それほど違和感は大きくない。
徹底してト書きを省くのではなく、②が時折挿入されるわけとしては、これも同様のケースが連想される。そうした作家は多くはないが、いないわけでもない。文字を書くことで、次の文字が導き出されていくのだとすると次に、現れるべきテクストが台詞ベースのものではなく光景や挙動のコード化なのだとすれば、型の間に息吹が込められて対象を牽制するものを思わせ、一連の動き(文字化)の中で違和感を抱くものでもない。
③についても②と同様であり、それが自然発生的であれば、B子による一連の動き(執筆)を妨げるものはない。内的なものを発する掛け声は自然発生的に一連の動きを誘発し、型をすすめていく。
私は④について、映画を連想する。映画は表象体系の可能性を映し出すものである。B子が執筆を通じて見出しているのは、空間としての表象体系の言語化であり、その中で最後に指示されるのであろう「~END~」で締めくくられているのだろう、と、尤もらしいことを想像してみている。古くから見慣れている原稿用紙という体系もあって、私はどうにもこの、いわゆるワープロで打たれる無機質な詩文学性の高い成り立ちというよりも、その先に見通されたB子の視線を、読み進めているうちに、共有するような気持になってしまうのだ。
どれについて書いてもつまりは尤もらしいことで、それは「B子の脚本が何らかの作用によって突き詰められているもの」と想像させるものでありながら、その在り方に、既成ではないものを実感させるからである。
そこについて辛うじて感知できるのは、身体性とB子の世界を通したコード譜であり、それらは上述と矛盾するようであるがポエジーであり、そこから立ち上げられるのがB子の上演群なのである。
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閑話休題。
B子の価値規範は、何事にもイーブンに軍備的であるように見える。動物や子供等の"管理されるもの"を相手取っても同様である。舞台外においても、多くの職業作家や職業表現家のような作家然・表現者然としたにおい、嘘ごとは感じられず、外界に対していつも(平手打ちするようなアクションに警戒する)観客者然としたものを私は感じている。つまり舞台では「作家(B子)—観客(対B子)」であるが、そこから出ると「観客(B子)ー外界(万物)」のような姿勢を端的に感じる。さながら異世界から転生してきたかのような。そこには神与的な人間機能と、舞台上に向けたその発揮が在る。
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「精神明晰サバナに没す」は、劇中ほとんど"女"と"店長"の対話で構成される。
脳内の存在とのQ&A、月に見惚れる万引きした女への店長からのクエスチョン。店長は女のことを知らない。女のことを女もわかっているのか。女は何者に吹っ掛けられ、そのリアクションを見られている。
観客はそのほとんどの時間を、何者かのアクションを通じて、この女のリアクションを目撃し、女へのイメージを膨らませていくことになるだろう。
B子がどこかから抽出してきた"女"が主軸の、ドキュメンタリーに近しい"肖像的演劇"が本作ではないかと私は思う。
他意がない言い方をすると、本作は執筆によって恐らく世界を完結、終始させられていない。その後の"女"と"事象"に対する扱いが、B子の稽古場での過程を経て、私たちはその結論を受け取るに過ぎない。
ここで面白いのは、ひとつのおたのしみではあっても、B子への興味を観客が持つか持たないかは、観劇の満足度を決めつけない部分である。
インターネットに転がる個性的な人間たちのブログは、その人物への興味で娯楽性を転身し、さびしくなれば、或る種自傷して興味を引き、そこから身のあるままをブログに綴り、ときにそのアクセス数に浮き沈む。
このことと明らかに一線を画し、B子は、前提として、登場人物を他者として、しかし(時にはスパイスを振るように露悪的に)面白がれる対象として、その保証を高めることに意匠を凝らしているように見える。
これらはこのやり方ならではの表象であり、時にB子の上演の受け取りを困惑させるものとしたり、よくわからないからよいという言わせ方をせしめる。ただし風俗店の客引きが着ぐるみを着たり、その発声や一瞬のワードチョイスに自傷やスカシがないのと同じようで、本作は"女"をただB子が責任をもって見せているに過ぎない。"女"を伝えるやり方を、B子はやっているだけで、私たちはただその店のコンセプトをそこで知りきる必要はないし、その客引きが喧嘩をしていたら面白がるように、そこにあるドラマを線引きせずに面白がれば妙な力学が認知をゆがめて、上演を露悪的なものと誤認する必要もなくなる。
「若さってなんだと思う!?」「宇宙ってなんだと思う」と店長と女はやり取りをする。
女は断言できないが回答する。店長は断言してほしいといい、女は断言することでの取り返しのなさが怖いとのたまう。
例えばおこなわれているのは上記である。それがB子という責任者によって板上に載せられる。ドラマであり、時間である。上記をたのしめるやり方で、それ以外のことはあまり必要もないのかもしれない。
本作のホットポイントとして、陰毛をめぐる攻防がある。
路上での情事に刺激以上のものがある以上、私はその攻防にポエジーも感じる。
脚本を執筆する作者による、内向化して世界での結論に自然に向かうことを嫌うように、本作のタイトルがときおり挿入される。これをサブリミナル効果として結論づけてしまうことはカンタンであるが、私はそれ以上の、メタ的な意識操作を感じる。ここで私たちは我に返る。
女の名前にまつわる話が、60分という長さを物ともせずに、強調されていく。
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閑話休題。
残酷演劇(読み)ざんこくえんげき(英語表記)théâtre de la cruaut
フランスの詩人・演出家・俳優A.アルトーによってもたらされた演劇理念。1920年に俳優としてデビューしたアルトーは,残酷演劇実践の試みであった《チェンチ一族》の上演失敗(1935)など,実際の舞台には成果は残さず,38年に出版された〈残酷演劇宣言〉(1932発表)を含む理論書《演劇とその分身Le théâtre et son double》によって,書物を通じて新しい演劇観を啓示し,のちの演劇に多大な影響を与えた。
アルトーにとって演劇とは舞台の演技は精神の存在証明の方法にほかならなかった。
力のない〈ことば〉による論理的な叙述や心理描写を排して,言語が元来もつ呪術的・魔術的な力を用い,観客の全存在に訴えて,その変革を迫ろうとする試みである。アルトーのこの用語はしばしば誤解されるのだが,〈残酷〉とは肉体的暴力とはまったく関係がない。
演劇未経験者を起用しながら、発語と音楽、物と身体を等価にあつかうような、飴屋法水の「残酷劇」は、当時の小劇場の中でも異質な存在として注目されるも、4作品で解散。
社会に溶け込むために情操教育が発達されており、そこから漏れた子供たちに対して人は残酷な在り様であると表現することがある。B子は、従来の残酷さを、裏返すような行為を表現としているように思えなくもないが、これもまた尤もらしいだけだけど。
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B子の謎めいたことによって、本作の見方に迷いそう、諦めてぶっつけでいく、という人の中に、私が捧げたいのは
「本作は"登場人物の女の肖像"である」という見方をする選択肢である。その特色を記すなら、B子がシーンの表面に手を絶えず滑らかに沿わせて、引っかかる部分を引っかいている情景である。稽古場も観に行った。現代音楽や舞踊、演劇、どの境もB子を閉ざしてはいなかった。これはそういう舞台であろうと思う。
店長と、万引きした女の閉ざされたワンシチュエーションダイアログは、計画的で、情緒的です。
引っかかる部分が、上演のある時、観る人の中で引っぺがされて、何かが裏返る瞬間さえありえる。花が揺れた時にふと涙ぐむことがあるみたいに。
路傍のB子の真骨頂ともいえる、劇作による上演がこの「精神明晰サバナに没す」です、と尤もらしく私は無責任に紹介します。
ーー平井寛人(studio hiari)

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